R氏の本棚

日々の読書記録

辻真先、健在なりーたかが殺人じゃないか/辻真先

物語の舞台は、街にも人にも戦争の跡が色濃く残る昭和24(1949)年の名古屋(と一部は豊橋近郊の温泉地)である。空襲で破壊されたままの建物が残り、100m道路はまだ存在しない。1951年の講和条約前であり、街には進駐軍が闊歩している。

その街で、降って湧いたような男女共学に戸惑っている新制高校の、推理小説好きの男子生徒が主人公である。戦前からの価値観やふるまいをそのまま引きずってきているような人物たちも力を失っていないが、他方で、映画や推理小説といった生徒たちの部活動やさばさばと開けて活動的な顧問の女性教師の姿は、新時代を反映してもいる。

彼らが活動中に遭遇した2件の殺人事件、被害者はいずれも戦前からの地元の名士。かたや密室殺人、かたや嵐の中のバラバラ殺人。いずれも「不可能犯罪」の類に見える。将来の推理作家を自認する主人公はその謎に挑むが…

1949年という時代の空気と、その中で生きている様々な人びと(学生、教師、料理店、警察、米軍相手の売春街、オンリーとなる女性…)が、かれらが引きずっている戦争の傷を含めてリアルに、そして湿っぽくなく描かれている。探偵役は途中ちょっと顔を出しただけで、ラストに請われて再び登場しすべての謎を解くのだが、この人の人物造形も興味深い。

「たかが殺人じゃないか」というタイトルは妙に軽薄に見えるが、物語中でその言葉を発する人物がどういう人物だったか、を知るとむしろじわじわと恐ろしい。冒頭からラストの伏線回収に至るまで、辻真先の健在ぶりを見せつけられた。

東京創元社/2020年

 

たかが殺人じゃないか 昭和24年の推理小説

あなたはここに何を読むかーかがみの孤城/辻村深月

ネタバレあります!

 

いじめがきっかけで不登校になった中学生、こころは、ある日光り始めた自室の鏡を通って異世界にたどりつく。そこには奇妙な城とオオカミの仮面の少女、そして同年代の少年少女たちがいた…

ナルニア国物語を彷彿とさせるような(実際物語の中で主人公自身が連想している)異世界ファンタジーの道具立てである。ただし、ここに出てくるのは剣と魔法ではなく、それぞれの日常の延長だ。そして、異なる背景をもっている(らしい)少年少女たちが、ときに軋轢を生じながら徐々に関係を築き、紆余曲折しながら、オオカミ少女から与えられた「来年の3月30日までに秘密の部屋の鍵を探す」という課題のクリアに向かっていく。

主人公の心理描写が繊細でリアルである。両親への罪悪感と反発、いじめが始まる前のごく短期間だけ許されていた楽しい時間への渇望。中でも級友たちが自宅におしかけてきた場面の恐怖は、読んでいるこちらまで鳥肌が立つ。また、異世界での少年少女たちの対立や反発、互いを知っていく中での妥協や仲直りの過程も丁寧で説得力がある。

途中までは、辻村作品にしてはわかりやすすぎるというか、低年齢層向けなのかなあと思いながら読んでいたが、文庫上巻の終盤になって物語が大きく捩れているのに気づく。これは単純な異世界ものの構造ではないのではないか…?

文庫下巻、互いの協力関係を構築し始めた少年少女たちは、1月のある日、現実世界で会うことを約束する。しかしお互いに会うことはできず、そのことから、それぞれの現実世界とこの異世界との関係そのものの謎に気づき、これが物語の大きな転換点になる。一方、同時並行的に、主人公の現実世界では友人のひとりとの関係が修復されはじめる。結果的にこのことが、偶然にも破滅的な最後から主人公を免れさせ、その時最終課題は「仲間たちの救出」に転換している。この二転三転する構造とそこからの展開のスピードは、前半のテンポとは大きく違っている。

ラストですべての謎は明かされ、人間関係の辻褄もあっていくのだが、正直ここまで種明かしせずに読者にまかせてもいいのではないか、という気はする。

ひとりの少女の「行きて帰りし物語」でもあるが、視点を変えればこれはタイムパラドックスを逆手にとった物語(過去のある時点にいた人を助けたことで現在の自分が助けられる)でもある。不登校とひとくちに言っても様々な背景があるという物語でもあるしトラウマからの回復の物語でもある。読み手によって様々なものが読み取れる物語でもあると思う。

ポプラ文庫/2021年(単行本は2017年/ポプラ社

かがみの孤城 上 (ポプラ文庫)

かがみの孤城

 

問い続けられている問いーWHAT IS LIFE? 生命とは何か/ポール・ナース著/竹内薫訳

本書で何が書かれているか、それは端的にまえがきに記されている。

生命って、なんなんだろう?

私は人生を通じてこの問題を考えてきたが、 満足のいく答えは簡単には見つからない。意外かもしれないが、生命についての標準的な定義などないのだ。それでも、科学者たちは年月をかけ、この問題と格闘してきた。

著者は細胞周期に関する研究でノーベル医学生理学賞を受賞した生物学者であり、まさに生物学史を創ってきた一人である。本書は「生物学の教科書」というよりむしろ、「生物学史の担い手自身によって書かれたリアル生物学史の書」と呼んだほうがよいように私には思われる。

第一章は細胞説の成立と「細胞とは何か」の解説、第二章は遺伝子の発見とその構造と働き、そして著者自身の発見について、第三章は自然淘汰と進化のしくみ、さらに細胞周期を制御するcdc2(著者が発見した遺伝子)が酵母からヒトまで共通しているらしいこと、第4章は酵素の発見譚に始まり生命体の中で起きている様々な化学反応とその制御について、第5章は生体内での情報伝達とその調節に関する研究の進展…古今の科学者たちのエピソードをひきつつ、それぞれの項目について的確に整理され、実にわかりやすく書かれている。それぞれ決して長い章ではないので、当然少し専門に足を踏み入れた人にとっては「もう少しつっこんで説明してほしい」ということになろうが(私も思ったが)、入り口に立たせてくれるという意味ではこれ以上のものはなかなかないのではないかと思う。

最後の二章はいわば「現在に残された問題」とでも言おうか。著者自身、「生命とは何か」の回答を出しているわけではない(暫定的なものは提示されている)。生命倫理にかかわるところなどは課題の存在が指摘されているのみで深入りはしていない。第一線の生物学者として、現代の世界が抱える諸課題に対してまだまだ科学が肯定的な貢献ができるという楽観を示しているが、社会への適用については「社会全体での議論」の必要性を強調する。そこでの科学者の役割は「恩恵と危険性と起こりうる障害をはっきり説明」することだ。

「生命とは何か」という問いは、著者自身が、そしてすべての科学者が今も問い続けている問である。その問いがどのように問われてきたか、今後どのように問われていこうとしているのか、あるいはいくべきなのか。著者が投げかけているのは答えではなくさらなる問いであり、問うことへの誘いであるのだと思う。

なお翻訳はたいへん読みやすい。

ダイヤモンド社/2021年

WHAT IS LIFE?(ホワット・イズ・ライフ?)生命とは何か

子どもにかかわる人におすすめーゲーム・ネットの世界から離れられない子どもたち/吉川徹

著者は児童精神科医発達障害や精神的な問題を抱える子どもたちの臨床の場から、子どもとゲーム・ネットとのかかわり、そこへのおとなのかかわりについて論じている。私自身、小児科医として、というよりむしろ、ゲーム&ウオッチの時代から一貫してゲーム好きのまま成長し社会人となった今もそうである息子の親として、また自分もそれなりにゲームを楽しむ者として、うなずくところは多かった。

そもそも「ゲーム」にはどんなジャンルがあるのか、から説明されているところがいい。子どもたちが何を楽しんでいるのか、その内実をまったく知らずにかかわろうとしても一方的な決めつけにしかならないからだ。そしてゲームやネットを単純に「悪いもの」とせず、しかしまた単純にもちあげるのでもなく、困った側面にも目配りするバランスの良さも、この手の問題を扱う本ではまだ珍しいのではないかと思う。

好むと好まざるとにかかわらず、ICT化の方向はおそらく止まらないし、子どもたちは(むろんおとなもだが)そこで生きていく。だからこそ、「つきあいかた」が重要になる。ゲームやネットを使うときの約束を決めること、年齢に応じて子どもが自分で決める幅を広げていくこと、約束を決めるのは低年齢のうちからのほうがやりやすいこと、など実践的な提案も多い。また発達障害の子どもにとってのゲーム、という視点もあり、多様な子どもたちにかかわる人の参考になるだろう。

まだわかっていないことも多いということを踏まえながら、なるべく最新の「学術的にわかっていること」に基づいて書かれており、教育や保育、療育にかかわる人にも、保護者の立場の人にも一読をお勧めしたい。もっとも、著者も書いているようにこれからの保護者の年代はデジタルネイティヴになっていくので、あるいはこの分野へのとまどいは少なくなるかもしれず、むしろ祖父母世代にお勧め、と言うべきかもしれない。

 

合同出版・2021年

 

子どものこころの発達を知るシリーズ10 ゲーム・ネットの世界から離れられない子どもたち: 子どもが社会から孤立しないために (子どものこころの発達を知るシリーズ 10)

街が、息づいているー大阪/岸政彦・柴崎友香

大学に入るために大阪にやってきてそこで社会学者となり仕事をし暮らし続けている岸。大阪で生まれ育ち学校を出て作家になり大阪を出た柴崎。それぞれがそれぞれの「大阪」について交互に書き継いできたエッセイをまとめた本である(もとは雑誌『文藝』2019~2020の連載)。文章はとても読みやすくするすると入ってくるのだが、一気には読めなくて、一章ずつ読み継ぐようにして読んだ。

一気に読めなかったのは、そこに、大阪という街が、濃密に「生きている」からだ。仕事がらみで行ったことはあるけれどほぼ知らない街が、そこに住む友人に連れられて歩いているように、具体的な手触りをもって感じられる。街の片隅や裏道、家々のたたずまい、そんな細々としたものを、ふだん地元を歩いている時と同じように味わいながらゆっくりと読む。

近くに縦横に運河が走る町の団地や、だだっぴろい淀川の河川敷や、中学生が自転車で行く繁華街、高校生が今どきの文化に触れる映画館や、夜のタクシーでささやかれる「あそこらへん、あれやろ」という悪意や、そんな諸々の重層の中に、阪神大震災が襲いかかり、今は新型コロナウイルスが覆っている。その30数年の間に、街は少しずつ沈み、「維新的なもの」が浸透し、それでも「昔は良かった」と嘆くのではなくやはりこの人たちは大阪が好きなのだ。

読みながら自分自身の育った「東京」の細部を思い起こしたりもしていた。その地方の中心的な大都市であることや、一方向に海(港)を持ち川の多い街であることや、大阪と東京には似たところも多い。ごみごみしてうるさくてせわしなくてうんざりすることも多いけれど、その東京が私は好きだ。そしてそれは「故郷」という、郷愁を伴った感覚とは少し違う。同じような、街との距離のもちかたを、この本からは感じる。私にとってはそれが心地よい。

大阪よりずっとだだっ広く、大きくなっている東京が、このように書かれることはあるだろうか?「花の東京」と持ち上げられるのでも、「東京の馬鹿野郎」と一方的な怨みをぶつけられるのでもない、普通に人が生まれ育ち暮らしている「東京」が。

河出書房新社/2021年

大阪

今現在を見ているようーエピデミック/川端裕人

(ネタバレあります)

房総半島南部の町(おそらく館山がモデル)で、謎の感染症が拡がる。町なかで突然倒れた男。流行期を過ぎているのに次々と小児科医院を訪れるインフルエンザ様の症状の子どもたち。季節性インフルエンザ抗原陽性の患者もいるが、インフルエンザにしては若年層でも肺炎を起こして重症化するところが不自然だ。SARSなのか?新型のインフルエンザ?あるいは未知の感染症?正体を究明すべく現地に赴いたフィールド疫学者・島袋ケイトと現地の病院の勤務医高柳、島袋の同僚仙水と先輩の棋理、上司の御厨が中心となって物語が展開されていく。

2007年に単行本、2009年に文庫化された小説だが、新型コロナウイルスパンデミックという状況を受けて緊急復刊された。実際、10年以上前に書かれたとは思えないほど、現在進行形の事態と似通っている。感染症対応の第一線に立たされた病院と医療者の苦悩と奮闘、医療に不信を抱く患者家族、ネタに群がるマスコミ、対策や情報公開をめぐる政治的駆け引き、社会に拡がる漠然とした不安、感染多発地域への偏見と排除…

「疫学探偵」という言葉が出てくるが、「時間・場所・人」について得られた証拠を組み合わせ、感染の「元栓を締める」べく感染源感染経路を特定していく疫学者たちの作業は、確かに探偵のよう。その過程で、仮説が立てられ棄却されることが繰り返すのだが、疑われる要因が報道されるたびに過剰な忌避が起きるのは、現実に何度も見る光景で、これはいったいどうしたらよいのだろう?と思う。

不安に揺れる地域には怪しげなカルト集団の根拠地があったりもして、感染経路の追求は困難を極め、読者も混乱し右往左往させられる。一方地域に根ざした小児科医院は、院長が病に倒れた後もたしかな日常を支える拠点にいつの間にかなっていて、科学という武器で戦う疫学者たちとは異なる方向からの戦いの場ーむしろ護りの場というべきかもしれないがーがそこにはある。不穏な物語の中で、そこがひとつの救いにもなっている。

終盤、地域の感染は終息する。何人もの死者が積み重なったが奇跡的に重症から回復した人もいる。そしていくばくかの謎と不安の種を残して物語は終わる。冒頭から結末まで、息つく間もなく読み終えた。

集英社文庫/2020年(単行本2007年/2009年角川文庫)

エピデミック (集英社文庫)

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読書メーターに読んだ本の感想などをあげているのですが、字数制限におさまらないことも多いので、長めの感想の置き場所としてブログを使ってみることにしました。ゆるゆる更新していくことになると思います。