R氏の本棚

日々の読書記録

ケアする人とケアされる人のあいだーケアとは何か  看護・介護で大事なこと/村上靖彦

職業的ケアラーからピアまで、また医療福祉現場から地域まで、様々な現場における実践例をひきつつ、「ケアとは何なのか」をあらためて問う本である。

新書というコンパクトな書籍ではあるが、ケアラーとケアを受ける人との間の(しばしば困難な条件下での)コミュニケーション、「小さな願い」が肯定され実現される場としての「居場所」、「答えられない問い」の前で耐える力、ヒエラルキーをつくらないピアサポートの可能性…議論の幅は広い。かなり難しいテーマも、よく噛み砕いて説明されており読みやすかった。

一方、著者が「医療」と「ケア」とを対立するものと捉えてはいないことはわかるのだが、それらの重なる部分についてはあまり論じられていないように思った。たとえばモニター等の医療機器について、それは単に「身体の状態を数値化するもの」であるだけか。無論医療の文脈では、そのために装着されているとは言えるのだが、一方で、指につけたパルスオキシメータの表示する数値が、その子どもの体調や緊張/リラックスの度合いを反映するものとして、人の五感による感知と同等に扱われている場面は多く実在する。あるいは人工呼吸器を必須として暮らしている人のように、医療機器もまた「からだ」を構成する一部であり、その器械が発するアラームが、その人のからだの発する訴えである場合もある。人の五感をすり抜ける・見逃される変化を器械が捉え、それを介して応答が為されるのならば、それもまた「からだ」のケアという行為の一部分ということにはならないか。

また、意思表示が困難な人の発するメッセージを、注意深いケアラーが受け止めて反応する場面。たしかにそれが成立していると思われる場面があるということはわかる。しかし一方、こうした時に、その受け止め、解釈が思い込みでないこと、ケアを受ける人の意志を正確に反映していること、はどのように担保されるのだろう。無論、その意志を客観的に捉えるすべがないからこそその人は「意思表示が困難な人」となっているのだから、これは確かめようのないことだ。けれども、だからこそ、「これは思い込みではないのか」という自省が常に伴われていることが必要なのではないだろうか。

こう考えてくると、さらに次の疑問に行き着く。たしかに優れたケアラー、優れたケアの実践というものは存在する。しかし、それはもしかしたら「このケアラー」と「この被ケアラー」の間だから成立するに過ぎないこと、なのではないか。誰もがケアを受ける側にも提供する側にもなりうるとすれば、「特別に優れたケアラー」にしかできないケア、「特別な関係にあるからこそ成立する」ケア、であっては困る。職業的ケアラーであれば研修や実践を積み研鑽することを求められもしようが、そうであっても多くは「普通」のケアラーだ。そしてケアの相手はそれ以上に多様だ。まして、乳幼児や高齢者のケアにあたる圧倒的多数の人は単に「家族である」だけでそれを担わざるをえないアマチュアだ。そこに「好き嫌い」や「相性」のようなものが介在することを排除することはできないのではないか。わずかな変化を捉える格別に鋭い感性、宙吊りの状態に耐えうる強い精神力、といったものを、ひろく一般に要求することができるだろうか。もっと、いわば「標準化」された、誰もが肩肘張らずにケアを担える構え、のようなものはないのだろうか。

本書の後半に出てくる、地域の居場所やピアサポートといったものは、それを考える入口になりうるのかもしれない。そういう意味でも、いろいろ示唆に富んだ一冊であり、様々な視点で読むことが可能だろうと思う。

中公文庫/2021年