R氏の本棚

日々の読書記録

アウェイの本を読むということー中動態の世界/國分功一郎

周囲に言及する人が複数いたので読んでみたが、なかなかのアウェイ感だった。

本を読むのにホームもアウェイもないだろう、と言いたいところだが、やはり馴染みのない分野というのはあって、本書に書かれていることがらを理解するための基礎知識が、決定的に足りていないのだ。ギリシャ語もラテン語サンスクリット語もわかないし、アリストテレススピノザハイデッガーも高校の倫理で習った以上のことは知らないしアーレントなんて読んだことないし。

基礎知識がないということは、書かれていることを吟味するためのものさしを自分が持っていないということであり、そこでとりうる態度は、「そうなのか!」と著者の主張を丸呑みするか、「そういう考えもあるらしい」と棚に上げてしまうか、「読んで損した」と全否定するか、になりがちだ。

それではあまりにも不毛なので、読みとれたことをまとめると

(インド-ヨーロッパ語族の言語の)動詞には「能動態」と「受動態」以外に「中動態」という活用がかつて存在した。

受動態は後から派生したものでもともとは「能動態」と「中動態」であり、このとき行為の主体(私、などの主語)は前景に出ておらず、「起きていること」そのものが主体だった。行為の結果が外にあるのが能動態、行為者に帰結するのが中動態。

主体の前景化(能動態/中動態→能動態/受動態)と「意志」という概念の誕生(と言っていいのかどうか…)との関連。

人の行動は時間経過や状況の中での選択であって、それら(過去)抜きの、(現在から未来だけに向かう)「自由意志」というものは存在しえないのではないか、というようなこと。

…が、書かれているのだろうと思った。たぶん。

そうすると「責任」というのはどこに帰属するのか、ということになると思うのだけれど、そこまで話が行かないうちに終わっている感じがする。

よくわからないのは途中で日本語の受動態に言及される箇所で、言語としての日本語をまな板に乗せるならば近隣の琉球語朝鮮語、文法的には全く異なるが文化的には多大な影響を受け続けてきた中国語、との関連性の中で論じられるべきなのではないかという違和感が拭えなかった。

終章はメルヴィルの小説を題材に、それまでの議論をまとめているのだが、なぜここで小説(フィクション)なのか、作家が創作した象徴的な人物が何かを象徴しているといってもそれは同義反復なのではないか、というのもひっかかる。

「なぜこれが『ケアをひらく』でなぜ医学書院なのか?」と読みながらずっと持っていた疑問にはあとがきで一応答えが出たが、むしろその(自閉症研究とか依存症とかとの)繋ぎめのところがもっと知りたい。

最後にひとつ、「選択」と「自由意志」というところで思い出すのは、不登校をめぐって、子どもは不登校を「選んだ」と言っていいのか?という議論があったことだ。『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』(貴戸理恵常野雄次郎)という本で、かつて不登校当事者であった人たちが、親たちの運動で語られた「不登校を選んだ子」という「選択の物語」への異議を表明した。それは不登校経験を否定的に考えるということではなく、また当時の状況の中では確かにその「物語」に助けられた部分もあることを認めつつ、それでも自分たちの経験は「自由に選んだ」と呼べるようなものではないのだ、という主張だった。たしかに子どもたちは、いくつかの等価な選択肢の中から自由にそれを選んでいるのではなく、他に選択肢がないから選んでいる。しかしそれを「行きたいのに行けないのだ」と表現するのもまた違うのだ。…というようなことをもっとうまく説明する手がかりに、この本に書かれたようなことが、もしかしたらなりうるのだろうか。

医学書院/2017年

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)