R氏の本棚

日々の読書記録

落とし物を拾うのは誰かー妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ/橋迫瑞穂

仕事で隣接する分野でもあり、実際に影響を受けている人と接したこともあるので、「妊娠・出産」をめぐるスピリチュアル市場の動向は気になっていた。本書は新書という手軽な体裁でありながら、気になっていたことがらはほぼカバーされ、またよく整理されており、そこは期待以上だった。最近の新書では省略されがちな出典が巻末に記載されているのもポイントが大きい。

本書では、まず妊娠・出産をめぐるスピリチュアル市場を「子宮系」「胎内記憶」「自然出産」という3つの分野に整理してそれぞれの歴史的流れと内容が概観され、次にスピリチュアリティフェミニズムの関係と距離が考察され、その上で、スピリチュアル市場における「妊娠・出産」の位置づけられかた・語られかたについて論じられている。女性が妊娠・出産によって大きな負担と人生の変容を迫られる(p.206)現代日本社会で、その女性たちがともすればスピリチュアル市場に引き寄せられてしまう構造が、そこに見えてくる。

以下、私なりに読み取ったこと、そこから考えたこと、残った疑問について述べる。致命的な誤読はしていないつもりであるが、私自身の属性(医師・小児科)ゆえのバイアスはあるかもしれない。

「子宮系」をめぐって

とりあげられているもの(妊娠・出産のスピリチュアリティ市場コンテンツ)の多くは、すでにある程度内容を把握しているものではあった。ただし3つの市場分野の中で、「子宮系」はあまり馴染みがなく、「子宮を温める」という珍妙な(身体の奥にあって深部体温と同じ温度である子宮をなぜ、どうやってあたためるというのだろう?)手法があることと、「子宮委員長はる」の名前くらいしか知らなかった。だから、様々な努力で「子宮の状態を整える」という「努力型」と、その逆張り的なものとして出てきた「子宮委員長はる」に代表される「開運型」という構図として提示されたのは新鮮だった。

また、「子宮系」のムック本などにおいてしばしば医師が登場すること、そこでは標準医療と同等に東洋医学代替医療マクロビオティックなどが並んでいること、中には医師が後者を称揚するものもあること、も指摘されているが、これらはコンテンツに対してある種の権威付けにもなっていると思われ、問題のねじれを感じる。こうした「医療との関係」についてはこの後にも論じられる。

本論とはややずれるが、「女性らしさ」(身体的な意味での)にかかわるホルモンを分泌する内分泌器官である卵巣ではなくなぜ「子宮」なのか?というのも謎である。また、そこに突如「卵子の老化(p.55)」という概念が差し込まれる文脈はもっとわからない。(なお、本書では詳しく触れられてはいないが、「卵子の老化」という用語を使って論じられていた問題は、ある程度高齢になれば不妊治療の成功率が下がる、ということだけでなく、高齢妊娠分娩に伴う母子のリスク増加などを含めて論じられるべきと個人的には考えている。)

「胎内記憶」と胎教の系譜

現在ほぼ池川明の独壇場である「胎内記憶」は、産科医や助産師の間でわりと肯定的に話題にのぼっていた(耳を疑った)記憶もあり、また最近では「絵本作家のぶみ」の作品の問題性を巡っての議論もあって、以前から問題意識を持っていたものである。

ここではまず、その前史ともいうべき「胎教」に2つのルートがあったことが示される。妊婦自身がリラックスして妊娠期間を過ごす(そのことによって胎児の「脳の発達」を促進する)ことを重視する派と、胎児に積極的に働きかける(それによって「優秀な子」を生む)派である。ここに示されたような、妊娠中の過ごし方如何によって、胎児の、主に「脳の発達」に影響を及ぼしうる、という思考方法には、本書で指摘されているような優生思想的傾きのみならず、妊娠中の母体ー胎児、という結びつきに過剰な意味を付与する危うさがあるのではないかと思う。(無論、アルコールやある種の薬物、ウイルスなど、胎盤経由で胎児に影響を及ぼしうるものはあるが、もちろんこれは「胎教」の範疇ではない)

それらに続いて登場した池川の「胎内記憶」は、それまでの「胎教」の流れも汲んでいるが、最大の特徴は、胎児を含む子どもの側が「神秘的・超越的とも言える性質を内包した存在」(p.108)とされ、母親を積極的に「選び、許す」能動性を付与されていることだろう。母を無限に肯定する存在としての子ども。これが虐待をも肯定することになりかねないことにも、ここでは触れられている。

それにしても子どものこうした神格化は、子ども自身の尊重になっているだろうか?当の子どもの立場はどうなってしまうのか、ということが(それはこの本の守備範囲をこえてしまうとは思うが)、最大の問題ではないだろうか。

なお著者はここで池川を教祖というよりもマーケター、と評しているが、「市場」への拡散という意味では、前述のベストセラー絵本作家のぶみや、後の章に登場する大葉ナナコなども看過できないだろう。

「自然なお産」の現在

「胎教」「胎内記憶」ともにそれぞれの文脈で「自然なお産」(医療の介入がない出産)に接続されてゆく。「自然なお産」という主張は遅くとも1970年代にはニューエイジ文化やフェミニズムとともに盛んになっており、学術的にとりあげられることもあった(このあたりは私自身もリアルタイムで見聞きしてきた)。しかし2000年代に入ってからのそれにはスピリチュアリティが色濃く影を落としており、また書籍の出版点数も増加しているという(これは知らなかった)。ここで著者はこれらを4つに分類している。

第一は海外の書籍の翻訳書で、ここではアイナ・メイ・ガスキンの著書が紹介されている。第二は日本での展開のひとつで、「自然なお産」にむけての「身体の整え方」と同時に「自然なお産」を「女性の内面に変化をもたらす」神秘的な体験として強調するものである。第三は「自然なお産」業界のカリスマ、産科医の吉村正(故人)である(出産/新生児医療界隈ではたいへんな有名人であるので、私ももちろんその主張と実践ー非常に問題の多いーは知っていた)。第四はホメオパシーで有名な由井寅子である。由井の活動は妊娠出産周辺だけにとどまるものではなく、むしろ他の分野で物議を醸し続けているのだが、助産師の間でホメオパシーに肯定的な人たちがいたこともあり、由井自身も『ホメオパシー的妊娠と出産』なる書籍を出していることから、ここでとりあげられたようだ。

これらを紹介した上で、著者は、日本における「自然な出産」を海外と比較し、いくつかの特徴を指摘している。海外のそれと共通しているのは、医療介入を排し女性が主体として出産に臨むべきとする点、その準備として食事や代替療法が重視されることである。相違がきわだつのは、日本では胎児や子どもに聖性を見出す傾向が強いこと、分娩時の痛みや困難を減らすことに価値が置かれておらずそれを「のりこえる」ことに価値ありとされていること、男性が完全に脇役におかれていること、である。「弱い子どもは生まれてくるべきでない」という優生思想的な考えも指摘されているが、それもこれらの価値観の延長上にあるのだろう。「安楽を求めるな」「試練を乗り越えてこそ」という価値観は、妊娠出産にかぎらず社会のあちこちにあふれているものであるし、これぞ「日本的」と言いたくなってくる。

スピリチュアリティフェミニズムの距離

続く第五章では、ここまでの分析から、妊娠・出産のスピリチュアル市場において「女性の身体性そのものに一定の価値づけがなされている」、「その価値づけにおいて『自然』という言葉が持ち出される」(p.146)という特徴があることが指摘される。そして、「自然」の意味づけ、という視点から、欧米ではフェミニズムスピリチュアリティが融合している場合もあるのに対し、日本においてはスピリチュアリティからフェミニズムが捨象され/むしろ忌避されているのは何故か、が検討される。

ここでとりあげられるのは青木やよひと三砂ちづるである。すでに、両者それぞれに対してフェミニズムの立場から批判が行われている経緯を踏まえた上で、しかし、フェミニズムスピリチュアリティ、妊娠・出産と「自然」、そこに「聖性」がもちこまれていること、についての検討は不十分なのではないか、というのが著者の問題意識である。

青木と三砂の両者が共通して強調する「自然」とはどのようなものか。著者は「妊娠・出産する女性の身体性そのものが、社会に現前して『ある』ということを強く押し出す」(p.173)点に注目する。「女性というカテゴリーが(中略)ジェンダーとして規定されるよりも優位に置かれる」「身体性と女性であることとを不可分とし、『自然』を付与することで聖性を持ち込む見方は、女性であることにより確からしさを与える」「妊娠・出産を中心とする身体性を女性の「本質」と見なす価値観は、時代的に見てもある種の普遍性を帯びている」(p.173)両者がしばしばイリイチを引用するのもうなずける。こうしたことは心理学的にも考察の対象になるのではないか、とも思う。

しかし「自然」と「聖性」のつながりかたについては、青木と三砂では異なる、と著者はいう。青木が身体性が拡充される外部に「自然」との接点があると考えるのに対し、三砂は「自然」を身体性の内側にのみ見出す(p.174)。また三砂は、男性の存在を重視していない。『男性はあくまで、女性が身体性を基盤とする自分自身の居場所を獲得する拠り所にすぎない」(p.176)。そうして女性が母となり家庭を取り仕切ることを重視し、夫婦関係もその中に位置づけられ、「家庭の外部に目を向けることよりも、子どもを産み育てることをそれ自体を女性の重要な役割だとして位置づける」(p.177)

…こうしてみると、「胎内記憶」同様ここでも「子ども自身の立場」が捨象されていることに気づく。青木が、子どもに対して家族が抑圧的束縛的でありうることを意識しているのに対し、三砂にはそれがない。本書の範囲外だとは思いつつも、この点はメモしておきたい。

こうした三砂の主張が現在のスピリチュアル市場と親和性が高い理由について、著者の分析は鋭い。「女性の身体性そのものに確かな価値や意味を与えることに特化していて、そのために『自然』とのつながりが重視されている」「『自然』は身体の外部に位置するのではなく、身体の内部に予め『ある』」(p.177)ーつまりデフォルトで「自然」と接続でき、そこに「意味」を見出すことができるわけだ。「それは、女性性器を有して、女性の身体に生まれたと言うだけで、ともすれば社会から不当な扱いを受ける事態から、女性自身の意識やありようを守ってくれる価値観でもある」「妊娠・出産しうる身体に生まれてきたことそのものが、ようやく重要な価値を帯びるものとして浮かび上がる」(p.177)

そして三砂は「出産から社会的意味を一時的に削ぎ落とし、女性としての至高の体験であるものとしてとらえ直す経路を指し示している。そしてそのまま、外部を排除した家庭をつくり上げて、それを切り盛りすることに女性の生きる道を見出そうとしている」(p.178)。ここでは「現代日本社会に女性の身体として生まれることや、妊娠・出産した女性が自身の納得のいく居場所を獲得することがいかに困難であるかが逆照射されている」(p.179)という指摘はもっともだと思う。また「母になることを全面的に肯定するということは、フェミニズムがここ30年の間で実現できなかった」「そのニーズに応えたのが現代社会におけるスピリチュアリティ」(p.179)というのもたぶんそのとおりなのだろう。しかし、(これも章末で著者が指摘しているところであるが)そこに出口はない…ということもほぼ自明であって、どうすればいいのかなあと戸惑ってしまう。

スピリチュアル市場の広がり

第六章では、ここでの議論を踏まえて、スピリチュアル市場において妊娠・出産のスピリチュアリティがどのように示されてきたのか、が、4つの視点からあらためて論じられる。

まず「女性の身体性」という視点。スピリチュアル市場において妊娠・出産は「女性の身体として生まれた存在だけにしか体験できないこと」であり、「容易には言語化できない濃密なものとして聖化され」「超越性とのつながりを、自分自身だけでなく周囲にも提示する役割を担う」(p.186)。こうして整理されると、誰しも否定できない第一の論点から第二点へとつながるところには大きな飛躍があるし、そこから第三点にもまた飛躍があるのがわかる。にもかかわらず、少なからぬ人がこの論法にひっかかってしまっている。これはかなり強力な呪いのようなものだ、と感じる。

次は「他者・家族・国家(=外部)との関係」。「外部」としてまず出てくる他者は「子ども」である。子どもは「母親自身をいわば聖なる<母>へと高める役割を与えられている」(p.187)。(これ自体が子ども自身の立場を捨象したものであり、子どもを<聖化>しているようでいて実は母親の存在肯定のために従属させている、ということは何度でも強調したい)。これと対象的に男性の存在が希薄であることは先に述べられていたが、同時に女性自身のもとの家族、特に実母の希薄化、をも著者は指摘する。現実の女性が妊娠・出産とそれに続く育児においてしばしば参照し、ときに助力を求めるのが実母である、ということを考えると、ここで重視されている「家族」は現実のそれではないわけだ。

こうした身体観(と書かれているがここの文脈では「家族観」ではないかという気もするが)は身体性の内側と超越性が接続する一方で外部の社会への視線が(スピリチュアル的身体観から)排除されていることと関係している、と著者は言う(p.188)。そのことは代替医療との親和性の高さをも説明する。自身や家族の身体のケアを、医療をはじめとする外部の社会システムに委ねることなく、自身の手で全うしたいという願望、と表現されているが、これはまさにそのとおりだろう。ここでは「家族」という「人のつながり」よりも、自身が家事育児に専念したり身体ケアを行ったりする「家庭」という「場所・枠組み」こそが重視されているのではないか、それは<母>の身体性を拡大したものとも考えられるのでは、との指摘(p.190)には、なるほど、と思うと同時に、そこまで肥大化した<母>には非現実的な、物語的な怖ろしさを感じざるを得ない。

そして「医療との関係」。スピリチュアル側では代替療法東洋医学との親和性から現在の医学に批判的である側面がある一方、医学の情報に基づいて初めて子宮など「体の内側」に言及できる、いわば権威付け的に利用している面もある、という矛盾する要素が存在すると同時に、スピリチュアリティ言説の中で医療者、特に産婦人科医と助産師がしばしば大きな役割を担っていること、が指摘さていれる。「妊娠・出産のスピリチュアリティから医療のありようが批判されるのと同時に、医療がスピリチュアリティと融合するという一見矛盾した状況が現れている」(p.194)。なお産科医療とスピリチュアルの捻れた関係については私自身も長く問題意識として持っていて、それはこの後に論じられる「フェミニズムとの関係」にも関わっているのではないか、と個人的には考えている。

4つめが「フェミニズムとの関係」である。現在のスピリチュアル市場では「妊娠・出産のコンテンツからフェミニズムが排除され」(p.196)、そのかわり、女性の身体性にこだわり、「女性らしさ」を磨くことを奨励し、「家庭」の枠組みの中で家事育児を中心として担うことを重視する。それは家庭の「外部」が捨象されることであり、同時に「聖なる<母>としてのイメージ」がそこに位置づけられている(p.198)。一方フェミニズムは、「妊娠・出産とは何か、その身体性を生きる女性とは何か、あるいは誰なのかということについて問い続け、議論を重ねてきた」(p.198)。こうしたことが、結果的に、妊娠・出産のスピリチュアリティが「フェミニズムから取りこぼされた妊娠・出産を受け止める役割を担って」(p.199)いくことにつながっている、と著者は見る。そして、これに「フェミニズムはどのように応答することができるのだろうか」と問いかけている。

最後に、「市場」の中の「妊娠・出産のスピリチュアリティ」が、そのコンテンツを入口として様々な業者にひきこまれ消費者問題化したり、代替医療系コンテンツに深入りして母子の健康被害につながる危険性もあることが指摘される。しかし、そのような危うさがありながらも、妊娠・出産が女性の人生に大きな変容を迫る日本社会にあって、「こうした変容を受動的にではなく能動的に働きかけるなら、妊娠・出産を経て<母>になることを、外部に期待することなく、自身の内面からの積極的かつ純粋な希望としてとらえる必要がある。」(p.206)そこに妊娠・出産のスピリチュアリティ市場での受容が生み出されている、その構造は、たしかに、単に「スピにひっかかる愚かさ」と言って切り捨てることはできないだろう。

残っている疑問いくつか

得るところの多い本であったが、いくつか残っている疑問もある。

まず、「自然なお産」の先にある「母乳主義」について。本書でも一ヶ所触れられてはいるが、授乳という行為に生理的意義意外にさまざまなスピリチュアルなものをのせる言説は多く、女性自身の母乳への極端なこだわりや、偏った「母乳指導」によって、乳房トラブルや乳児の栄養不足などの問題も起きている。またそこにはやはり、「子どもとの関係」が外に開かれず女性の内側に接続されてしまう、ということが起きているのではないか。著者の立場からはこうしたことはどのようにとらえられるのだろうか。もう少し論じてほしかったと思う。

また第四章の末尾で著者は、「自然なお産」への注目のひろがりを「現在の産科医療が男性中心であることに起因する」と述べている。歴史的にはたしかにそうであろう。しかし「現在」であれば産婦人科医のかなりの割合を女性医師が占めつつあり、

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2018年の調査では産婦人科医師の女性比率は病院では50%に迫っている。

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さらに、現実に正常経過の分娩に主として関与するのは助産師(女性)である。産科医が複数いる場合に女性医師を希望するというシステムも拡がっている現在、産科医療の現場が「男性中心である」とまでは言えないのではないだろうか。(年齢層の高い医師=管理職・指導医層ではまだまだ男性が多く、したがって組織の中での意思決定が男性中心に偏るであろう、というのであればそれはわかるのだが、それこそ他科はもっとその傾向が強いので、産科医療だけの問題ではなくなってしまう。)

もちろん医療におけるパターナリズムと自己決定権などの問題は今でもあるし、「産む女性が主体になるべき」という主張のひとつの根っこがそこにあるとは思うが、これらは(患者の自己決定権という意味で)産科にとどまらない問題群でもある。またこれに続く「医療が内包するイデオロギー」とは具体的に何なのだろうか。もちろん医療がイデオロギーフリーだと言うつもりもないが、著者がどのようなイデオロギーを想定しているのかがここではちょっと読みとれなかった。

第六章では、妊娠出産にかかわるスピリチュアル市場の担い手としてしばしば産科の医師や助産師が登場する理由として、「産科医療の特殊性がかかわっているのでは」と分析されているが、これはどうであろうか。妊娠出産にかかわって「スピリチュアル」的主張を展開している医師はたしかに目立つが、要は少数の有名人ということであって、大部分の医師は地道な標準医療を展開している。著者も指摘しているように医師の指示下から独立しようとする指向の強い助産師の一部がスピリチュアルと代替医療に傾倒することもみられ、そのために悲惨な事件もあったが、これも現在の時点で言えばむしろ医師と助産師のパートナーシップを追求する助産師のほうが多いのではないかと思う。そして産科医療が「母子の生死に大きく関わる」のは確かだが、生命の瀬戸際と言えば救急医療や終末期医療のほうがはるかに「生命」の瀬戸際にいるし、むろんこれらの領域でもスピリチュアルっぽい医師はいる。この点で産科医療だけが特別だとは思えないのだが。

一方あとがきで述べられているように、妊娠・出産という事象から「スピリチュアルなもの」の居場所を完全になくしてしまうことは、おそらく、不可能だろう。それは「病」においても「老い」においても「死」においてもそうである。医療がそのような「スピリチュアリティ」とどう向き合いどのような関係を築くのか、はたしかに大きな課題であるだろう。(それにとりくんでいる人たちがいることも知っているが、不勉強でその内容までは十分承知していない。)

もうひとつ、フェミニズムとスピリチュアルとのそもそもの関係、についてである。著者も言っているように、フェミニズムとスピリチュアルなものとはかつて1970年代には(他のニューエイジ/自然志向的なものとともに)比較的近くにあった。そしてそれは、本書で取り上げられている代表的な論者青木やよひで終わったのではなく、その後もずっと、フェミニズム関連の運動/メディアの中に、スピリチュアルなもの・自然志向や代替医療に親和的な傾向が続いていたのではないだろうか。

こう考えるのは、たとえば本書にも出てくる初期ウーマン・リブの担い手田中美津が、その後鍼灸師となってからの著書の中で、代替医療(それもかなり怪しい部類)の「O-リング」を勧めているのを読んでひっくりかえりそうになった経験があるからだし、フェミニズム系の媒体で様々な代替療法や食事療法が取り上げられたり、アプリオリな母乳主義的主張が掲載されたりするのを見てきたからだし、助産師向けの雑誌の中で、フェミニズム的な主張と並んで吉村や三砂が持ち上げられているのを目の当たりにしてきたからだ。それらの経験は、産科医療とスピリチュアルのつなぎ目のひとつとして、フェミニズムがあったのでは?という疑問につながっている。

そもそも1970年代のフェミニズムの中には、女性が自身の身体について、その構造と生理(月経のことではなく本来の意味のー生理学的なー)を把握し、そこに起こることに知識をもって対処しよう、という志向性があったはずだ。その対処法の中にスピリチュアルな要素や(特に欧米のオリエンタル志向と相まって)東洋医学代替医療的なものが含まれていたにしても、解剖や生理の知識はたしかなものであった。しかし日本のフェミニズムはどこかで、そうした「身体への向き合い方」から「正統派」的な医学医療知識の部分をこそげ落としていったのではないだろうか。

なぜフェミニズム代替医療やスピリチュアルなほうに寄っていってしまうのか、そのことによって自らを裏切ってしまうのか。それに対してどうすればよいのか。私にとってはそれが年来の疑問であったし、この疑問はまだ解決しそうもない。

集英社新書/2021年