R氏の本棚

日々の読書記録

ケアする人とケアされる人のあいだーケアとは何か  看護・介護で大事なこと/村上靖彦

職業的ケアラーからピアまで、また医療福祉現場から地域まで、様々な現場における実践例をひきつつ、「ケアとは何なのか」をあらためて問う本である。

新書というコンパクトな書籍ではあるが、ケアラーとケアを受ける人との間の(しばしば困難な条件下での)コミュニケーション、「小さな願い」が肯定され実現される場としての「居場所」、「答えられない問い」の前で耐える力、ヒエラルキーをつくらないピアサポートの可能性…議論の幅は広い。かなり難しいテーマも、よく噛み砕いて説明されており読みやすかった。

一方、著者が「医療」と「ケア」とを対立するものと捉えてはいないことはわかるのだが、それらの重なる部分についてはあまり論じられていないように思った。たとえばモニター等の医療機器について、それは単に「身体の状態を数値化するもの」であるだけか。無論医療の文脈では、そのために装着されているとは言えるのだが、一方で、指につけたパルスオキシメータの表示する数値が、その子どもの体調や緊張/リラックスの度合いを反映するものとして、人の五感による感知と同等に扱われている場面は多く実在する。あるいは人工呼吸器を必須として暮らしている人のように、医療機器もまた「からだ」を構成する一部であり、その器械が発するアラームが、その人のからだの発する訴えである場合もある。人の五感をすり抜ける・見逃される変化を器械が捉え、それを介して応答が為されるのならば、それもまた「からだ」のケアという行為の一部分ということにはならないか。

また、意思表示が困難な人の発するメッセージを、注意深いケアラーが受け止めて反応する場面。たしかにそれが成立していると思われる場面があるということはわかる。しかし一方、こうした時に、その受け止め、解釈が思い込みでないこと、ケアを受ける人の意志を正確に反映していること、はどのように担保されるのだろう。無論、その意志を客観的に捉えるすべがないからこそその人は「意思表示が困難な人」となっているのだから、これは確かめようのないことだ。けれども、だからこそ、「これは思い込みではないのか」という自省が常に伴われていることが必要なのではないだろうか。

こう考えてくると、さらに次の疑問に行き着く。たしかに優れたケアラー、優れたケアの実践というものは存在する。しかし、それはもしかしたら「このケアラー」と「この被ケアラー」の間だから成立するに過ぎないこと、なのではないか。誰もがケアを受ける側にも提供する側にもなりうるとすれば、「特別に優れたケアラー」にしかできないケア、「特別な関係にあるからこそ成立する」ケア、であっては困る。職業的ケアラーであれば研修や実践を積み研鑽することを求められもしようが、そうであっても多くは「普通」のケアラーだ。そしてケアの相手はそれ以上に多様だ。まして、乳幼児や高齢者のケアにあたる圧倒的多数の人は単に「家族である」だけでそれを担わざるをえないアマチュアだ。そこに「好き嫌い」や「相性」のようなものが介在することを排除することはできないのではないか。わずかな変化を捉える格別に鋭い感性、宙吊りの状態に耐えうる強い精神力、といったものを、ひろく一般に要求することができるだろうか。もっと、いわば「標準化」された、誰もが肩肘張らずにケアを担える構え、のようなものはないのだろうか。

本書の後半に出てくる、地域の居場所やピアサポートといったものは、それを考える入口になりうるのかもしれない。そういう意味でも、いろいろ示唆に富んだ一冊であり、様々な視点で読むことが可能だろうと思う。

中公文庫/2021年

 

これはディストピアなのか?ー献灯使/多和田葉子

表題作の他に4篇の短編(そのうち1編は戯曲)が収められている。いずれも「2011年の震災後の日本」を共通のモチーフとして、しかし現実に起きたこと起きていることとはまったく異なる世界を描いた作品群、と言えばいいだろうか。

表題作は、大きな災厄(大規模な地殻変動、大地震、むちゃくちゃな気候変動、深刻な環境汚染)に襲われた後の、近未来の日本が舞台である。日本は鎖国をしており、産業構造は大幅に変化し、都市と言えるものは消失し、外来語はほぼ使用されない。老人たちは肉体的には老いていくが頑健で、死ぬことができない。子どもたちは身体が弱く、何かしらの障害があって、老人やそこそこ健康なおとなたちによる慎重なケアが必要だ。しかし学校の教師夜那谷は「今の子供たちを観察していると、自分たちの世代よりずっと進化しているという気がしてならない」。

そんな世界の中で、東京の「西域」に住み曾孫を懸命に世話している老人・義郎と、曾孫である無名を中心にしつつ、義郎の妻鞠華、義郎の回想に登場する娘と孫(=無名の父親)、隣家の娘睡蓮とその保護者、近くの商店の店主たち、等の物語が、行きつ戻りつして語られる。世界設定が明確に示されないまま話が進むので、読むのにはかなり体力が必要だった。主人公は義郎なのだと思うが、むしろ乳児院のような施設に住んで子どもたちを世話している鞠華や、前出の夜那谷、といった人たちのほうが、登場場面が少ないのに印象的だった。義郎が、折々に過去を振り返りつつ現在に帰ってくる役回りなのに対して、このふたりが、「子どもたちを外の世界に送り出す」ことに携わっているからかもしれない。

世界はたしかに大きく壊れているし、義郎のやっていることも苦労といえば苦労で、彼が怒りを爆発させる場面もあるが、登場人物たちが「不幸」かというと不思議にそうも見えない。出口がなく閉塞しているようだけれども、ひたひたと恐怖が寄せてくるというふうでもない。帯には「ディストピア小説」とあって、まあそういうジャンルにはなるのかなとは思うけれど、あまりディストピア感は感じなかった。終盤、「献灯使」として国外に脱出するらしい無名と睡蓮、ふたりの前には「未来」があるのだろうか。

他の短編は、もっと「震災と原発事故」という現実のできごとに寄っている。そのぶん、「現実に起きたこと起きていることとはまったく異なる」部分が目について、それがいちいち気になってしまう。もちろんフィクションなのだから、科学的に正確でなければならないということはないし、事実と異なってはならないということもない。しかしそれにしては、フィクションとしての世界構築が緻密でない感じがして、楽しみきれなかった。原発事故という現実に寄せつつ「ノアの洪水後」のように世界を描く作品としては、たとえば萩尾望都「なのはな」の繊細な切実さのほうが、私には好ましいかった。

 

 

「ケア」の概念を拡張するーケアの倫理とエンパワメント/小川公代

このところ畑違いの本を読むことが続いていて、本書もそのひとつではある。おそらく読みとれていないことがらも多いとは思うが、受け取ることが多かったとも思っているので少し感想を書き留めておく。

「ケア」というと家庭内で家族が行う育児や介護、あるいは医療福祉の場で行われる身体的精神的ケア、というイメージが強いと思う(「キュア」と『ケア」なんてことが言われたりもしていたよね)。しかし本書では、もっと広い社会的あるいは政治的文脈の中で「ケアの倫理」が論じられている。


第一章を読んでいる間は、「多孔的な自己」「カイロス的時間」「ネガティブ・ケイパビリティ」という3つのキイワードが、それぞれの定義を示すことなく繰り返されているため(ネット検索はしてみたが素人がのみこめるような十分かみくだいた説明には行き当たらなかった)、この分野の基礎知識のない身としてはかなり難解に感じ、理解の手がかりがないように思えた。そういう意味では、素人がいきなり読む本ではない、のかもしれない。

それでも、その後に続く各章で、様々な文学作品や、政治学倫理学等の論考をひきつつ展開される議論を読みすすめるうちに、多少の手がかりはつかめたようには思う。何よりもひとつひとつの作品についての分析が魅力的で、読んだことのないものも読みたくなってくる。

自分自身にひきつけてみれば、すぐに結論の出ない曖昧な状態、言わば「宙吊りにされた」状態に耐えることは、医療の場においても必要になる局面があるし、わりきりやすい結論に飛びつくと、えてして間違えてしまう。それは、もっとひろく社会生活においても決して珍しいことではない。また、他者との境界はありつつも開かれた、さまざまなものが出入り可能な柔軟な「自己」というふうに考えると、それも魅力的なものに思われる。他者とどのようにつながる、あるいはかかわるのか、その姿勢あるいは距離のとりかたについての、ひとつの示唆と考えればいいのかなと思う。

一方ここで「ケア」と対比されているのが「正義」であり、「倫理」と対比されているのが「道徳」である。「道徳」が外在的な確固とした社会規範であるのに対し、「倫理」は人と人との間の具体的なできごとに対して、迷いやとまどい、ゆらぎも含みながら実践されるもの、として定義されているようで、「倫理道徳」となんとなくひとまとめに規範性としてとらえていた私にとっては新鮮だった。しかしこのように定義すると、「生命倫理」のような概念はどういう扱いになるのだろうか、という疑問も湧く。社会的な合意、ある程度普遍性を持った(法的規定を含む)決まり事が必要な場面が、とても多いからだ。

そして「ケア」は、家庭内であるいはケア労働として特定のケアラーが担うものではなく、もっと社会的に開けたものとして再定義されていると理解していいのだろう。これはとても興味深い視点だけれど、ではそのような視点から考えるとき、社会経済のシステム、あるいはもっと具体的に医療や福祉、保育や教育のシステムは、どのように展望できるのだろうか。また日本のような、個人の権利という概念が定着していない社会(だからこそ自己責任論がより危険性を発揮しているのではないかと思う)で、「ケア」という視点を強調しすぎることの弊害というものはないだろうか。


わからないことがらも多いながら、いくつか読んでみようかなと思う参考文献もあり刺激的だった。

講談社/2021年

 

 

落とし物を拾うのは誰かー妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ/橋迫瑞穂

仕事で隣接する分野でもあり、実際に影響を受けている人と接したこともあるので、「妊娠・出産」をめぐるスピリチュアル市場の動向は気になっていた。本書は新書という手軽な体裁でありながら、気になっていたことがらはほぼカバーされ、またよく整理されており、そこは期待以上だった。最近の新書では省略されがちな出典が巻末に記載されているのもポイントが大きい。

本書では、まず妊娠・出産をめぐるスピリチュアル市場を「子宮系」「胎内記憶」「自然出産」という3つの分野に整理してそれぞれの歴史的流れと内容が概観され、次にスピリチュアリティフェミニズムの関係と距離が考察され、その上で、スピリチュアル市場における「妊娠・出産」の位置づけられかた・語られかたについて論じられている。女性が妊娠・出産によって大きな負担と人生の変容を迫られる(p.206)現代日本社会で、その女性たちがともすればスピリチュアル市場に引き寄せられてしまう構造が、そこに見えてくる。

以下、私なりに読み取ったこと、そこから考えたこと、残った疑問について述べる。致命的な誤読はしていないつもりであるが、私自身の属性(医師・小児科)ゆえのバイアスはあるかもしれない。

「子宮系」をめぐって

とりあげられているもの(妊娠・出産のスピリチュアリティ市場コンテンツ)の多くは、すでにある程度内容を把握しているものではあった。ただし3つの市場分野の中で、「子宮系」はあまり馴染みがなく、「子宮を温める」という珍妙な(身体の奥にあって深部体温と同じ温度である子宮をなぜ、どうやってあたためるというのだろう?)手法があることと、「子宮委員長はる」の名前くらいしか知らなかった。だから、様々な努力で「子宮の状態を整える」という「努力型」と、その逆張り的なものとして出てきた「子宮委員長はる」に代表される「開運型」という構図として提示されたのは新鮮だった。

また、「子宮系」のムック本などにおいてしばしば医師が登場すること、そこでは標準医療と同等に東洋医学代替医療マクロビオティックなどが並んでいること、中には医師が後者を称揚するものもあること、も指摘されているが、これらはコンテンツに対してある種の権威付けにもなっていると思われ、問題のねじれを感じる。こうした「医療との関係」についてはこの後にも論じられる。

本論とはややずれるが、「女性らしさ」(身体的な意味での)にかかわるホルモンを分泌する内分泌器官である卵巣ではなくなぜ「子宮」なのか?というのも謎である。また、そこに突如「卵子の老化(p.55)」という概念が差し込まれる文脈はもっとわからない。(なお、本書では詳しく触れられてはいないが、「卵子の老化」という用語を使って論じられていた問題は、ある程度高齢になれば不妊治療の成功率が下がる、ということだけでなく、高齢妊娠分娩に伴う母子のリスク増加などを含めて論じられるべきと個人的には考えている。)

「胎内記憶」と胎教の系譜

現在ほぼ池川明の独壇場である「胎内記憶」は、産科医や助産師の間でわりと肯定的に話題にのぼっていた(耳を疑った)記憶もあり、また最近では「絵本作家のぶみ」の作品の問題性を巡っての議論もあって、以前から問題意識を持っていたものである。

ここではまず、その前史ともいうべき「胎教」に2つのルートがあったことが示される。妊婦自身がリラックスして妊娠期間を過ごす(そのことによって胎児の「脳の発達」を促進する)ことを重視する派と、胎児に積極的に働きかける(それによって「優秀な子」を生む)派である。ここに示されたような、妊娠中の過ごし方如何によって、胎児の、主に「脳の発達」に影響を及ぼしうる、という思考方法には、本書で指摘されているような優生思想的傾きのみならず、妊娠中の母体ー胎児、という結びつきに過剰な意味を付与する危うさがあるのではないかと思う。(無論、アルコールやある種の薬物、ウイルスなど、胎盤経由で胎児に影響を及ぼしうるものはあるが、もちろんこれは「胎教」の範疇ではない)

それらに続いて登場した池川の「胎内記憶」は、それまでの「胎教」の流れも汲んでいるが、最大の特徴は、胎児を含む子どもの側が「神秘的・超越的とも言える性質を内包した存在」(p.108)とされ、母親を積極的に「選び、許す」能動性を付与されていることだろう。母を無限に肯定する存在としての子ども。これが虐待をも肯定することになりかねないことにも、ここでは触れられている。

それにしても子どものこうした神格化は、子ども自身の尊重になっているだろうか?当の子どもの立場はどうなってしまうのか、ということが(それはこの本の守備範囲をこえてしまうとは思うが)、最大の問題ではないだろうか。

なお著者はここで池川を教祖というよりもマーケター、と評しているが、「市場」への拡散という意味では、前述のベストセラー絵本作家のぶみや、後の章に登場する大葉ナナコなども看過できないだろう。

「自然なお産」の現在

「胎教」「胎内記憶」ともにそれぞれの文脈で「自然なお産」(医療の介入がない出産)に接続されてゆく。「自然なお産」という主張は遅くとも1970年代にはニューエイジ文化やフェミニズムとともに盛んになっており、学術的にとりあげられることもあった(このあたりは私自身もリアルタイムで見聞きしてきた)。しかし2000年代に入ってからのそれにはスピリチュアリティが色濃く影を落としており、また書籍の出版点数も増加しているという(これは知らなかった)。ここで著者はこれらを4つに分類している。

第一は海外の書籍の翻訳書で、ここではアイナ・メイ・ガスキンの著書が紹介されている。第二は日本での展開のひとつで、「自然なお産」にむけての「身体の整え方」と同時に「自然なお産」を「女性の内面に変化をもたらす」神秘的な体験として強調するものである。第三は「自然なお産」業界のカリスマ、産科医の吉村正(故人)である(出産/新生児医療界隈ではたいへんな有名人であるので、私ももちろんその主張と実践ー非常に問題の多いーは知っていた)。第四はホメオパシーで有名な由井寅子である。由井の活動は妊娠出産周辺だけにとどまるものではなく、むしろ他の分野で物議を醸し続けているのだが、助産師の間でホメオパシーに肯定的な人たちがいたこともあり、由井自身も『ホメオパシー的妊娠と出産』なる書籍を出していることから、ここでとりあげられたようだ。

これらを紹介した上で、著者は、日本における「自然な出産」を海外と比較し、いくつかの特徴を指摘している。海外のそれと共通しているのは、医療介入を排し女性が主体として出産に臨むべきとする点、その準備として食事や代替療法が重視されることである。相違がきわだつのは、日本では胎児や子どもに聖性を見出す傾向が強いこと、分娩時の痛みや困難を減らすことに価値が置かれておらずそれを「のりこえる」ことに価値ありとされていること、男性が完全に脇役におかれていること、である。「弱い子どもは生まれてくるべきでない」という優生思想的な考えも指摘されているが、それもこれらの価値観の延長上にあるのだろう。「安楽を求めるな」「試練を乗り越えてこそ」という価値観は、妊娠出産にかぎらず社会のあちこちにあふれているものであるし、これぞ「日本的」と言いたくなってくる。

スピリチュアリティフェミニズムの距離

続く第五章では、ここまでの分析から、妊娠・出産のスピリチュアル市場において「女性の身体性そのものに一定の価値づけがなされている」、「その価値づけにおいて『自然』という言葉が持ち出される」(p.146)という特徴があることが指摘される。そして、「自然」の意味づけ、という視点から、欧米ではフェミニズムスピリチュアリティが融合している場合もあるのに対し、日本においてはスピリチュアリティからフェミニズムが捨象され/むしろ忌避されているのは何故か、が検討される。

ここでとりあげられるのは青木やよひと三砂ちづるである。すでに、両者それぞれに対してフェミニズムの立場から批判が行われている経緯を踏まえた上で、しかし、フェミニズムスピリチュアリティ、妊娠・出産と「自然」、そこに「聖性」がもちこまれていること、についての検討は不十分なのではないか、というのが著者の問題意識である。

青木と三砂の両者が共通して強調する「自然」とはどのようなものか。著者は「妊娠・出産する女性の身体性そのものが、社会に現前して『ある』ということを強く押し出す」(p.173)点に注目する。「女性というカテゴリーが(中略)ジェンダーとして規定されるよりも優位に置かれる」「身体性と女性であることとを不可分とし、『自然』を付与することで聖性を持ち込む見方は、女性であることにより確からしさを与える」「妊娠・出産を中心とする身体性を女性の「本質」と見なす価値観は、時代的に見てもある種の普遍性を帯びている」(p.173)両者がしばしばイリイチを引用するのもうなずける。こうしたことは心理学的にも考察の対象になるのではないか、とも思う。

しかし「自然」と「聖性」のつながりかたについては、青木と三砂では異なる、と著者はいう。青木が身体性が拡充される外部に「自然」との接点があると考えるのに対し、三砂は「自然」を身体性の内側にのみ見出す(p.174)。また三砂は、男性の存在を重視していない。『男性はあくまで、女性が身体性を基盤とする自分自身の居場所を獲得する拠り所にすぎない」(p.176)。そうして女性が母となり家庭を取り仕切ることを重視し、夫婦関係もその中に位置づけられ、「家庭の外部に目を向けることよりも、子どもを産み育てることをそれ自体を女性の重要な役割だとして位置づける」(p.177)

…こうしてみると、「胎内記憶」同様ここでも「子ども自身の立場」が捨象されていることに気づく。青木が、子どもに対して家族が抑圧的束縛的でありうることを意識しているのに対し、三砂にはそれがない。本書の範囲外だとは思いつつも、この点はメモしておきたい。

こうした三砂の主張が現在のスピリチュアル市場と親和性が高い理由について、著者の分析は鋭い。「女性の身体性そのものに確かな価値や意味を与えることに特化していて、そのために『自然』とのつながりが重視されている」「『自然』は身体の外部に位置するのではなく、身体の内部に予め『ある』」(p.177)ーつまりデフォルトで「自然」と接続でき、そこに「意味」を見出すことができるわけだ。「それは、女性性器を有して、女性の身体に生まれたと言うだけで、ともすれば社会から不当な扱いを受ける事態から、女性自身の意識やありようを守ってくれる価値観でもある」「妊娠・出産しうる身体に生まれてきたことそのものが、ようやく重要な価値を帯びるものとして浮かび上がる」(p.177)

そして三砂は「出産から社会的意味を一時的に削ぎ落とし、女性としての至高の体験であるものとしてとらえ直す経路を指し示している。そしてそのまま、外部を排除した家庭をつくり上げて、それを切り盛りすることに女性の生きる道を見出そうとしている」(p.178)。ここでは「現代日本社会に女性の身体として生まれることや、妊娠・出産した女性が自身の納得のいく居場所を獲得することがいかに困難であるかが逆照射されている」(p.179)という指摘はもっともだと思う。また「母になることを全面的に肯定するということは、フェミニズムがここ30年の間で実現できなかった」「そのニーズに応えたのが現代社会におけるスピリチュアリティ」(p.179)というのもたぶんそのとおりなのだろう。しかし、(これも章末で著者が指摘しているところであるが)そこに出口はない…ということもほぼ自明であって、どうすればいいのかなあと戸惑ってしまう。

スピリチュアル市場の広がり

第六章では、ここでの議論を踏まえて、スピリチュアル市場において妊娠・出産のスピリチュアリティがどのように示されてきたのか、が、4つの視点からあらためて論じられる。

まず「女性の身体性」という視点。スピリチュアル市場において妊娠・出産は「女性の身体として生まれた存在だけにしか体験できないこと」であり、「容易には言語化できない濃密なものとして聖化され」「超越性とのつながりを、自分自身だけでなく周囲にも提示する役割を担う」(p.186)。こうして整理されると、誰しも否定できない第一の論点から第二点へとつながるところには大きな飛躍があるし、そこから第三点にもまた飛躍があるのがわかる。にもかかわらず、少なからぬ人がこの論法にひっかかってしまっている。これはかなり強力な呪いのようなものだ、と感じる。

次は「他者・家族・国家(=外部)との関係」。「外部」としてまず出てくる他者は「子ども」である。子どもは「母親自身をいわば聖なる<母>へと高める役割を与えられている」(p.187)。(これ自体が子ども自身の立場を捨象したものであり、子どもを<聖化>しているようでいて実は母親の存在肯定のために従属させている、ということは何度でも強調したい)。これと対象的に男性の存在が希薄であることは先に述べられていたが、同時に女性自身のもとの家族、特に実母の希薄化、をも著者は指摘する。現実の女性が妊娠・出産とそれに続く育児においてしばしば参照し、ときに助力を求めるのが実母である、ということを考えると、ここで重視されている「家族」は現実のそれではないわけだ。

こうした身体観(と書かれているがここの文脈では「家族観」ではないかという気もするが)は身体性の内側と超越性が接続する一方で外部の社会への視線が(スピリチュアル的身体観から)排除されていることと関係している、と著者は言う(p.188)。そのことは代替医療との親和性の高さをも説明する。自身や家族の身体のケアを、医療をはじめとする外部の社会システムに委ねることなく、自身の手で全うしたいという願望、と表現されているが、これはまさにそのとおりだろう。ここでは「家族」という「人のつながり」よりも、自身が家事育児に専念したり身体ケアを行ったりする「家庭」という「場所・枠組み」こそが重視されているのではないか、それは<母>の身体性を拡大したものとも考えられるのでは、との指摘(p.190)には、なるほど、と思うと同時に、そこまで肥大化した<母>には非現実的な、物語的な怖ろしさを感じざるを得ない。

そして「医療との関係」。スピリチュアル側では代替療法東洋医学との親和性から現在の医学に批判的である側面がある一方、医学の情報に基づいて初めて子宮など「体の内側」に言及できる、いわば権威付け的に利用している面もある、という矛盾する要素が存在すると同時に、スピリチュアリティ言説の中で医療者、特に産婦人科医と助産師がしばしば大きな役割を担っていること、が指摘さていれる。「妊娠・出産のスピリチュアリティから医療のありようが批判されるのと同時に、医療がスピリチュアリティと融合するという一見矛盾した状況が現れている」(p.194)。なお産科医療とスピリチュアルの捻れた関係については私自身も長く問題意識として持っていて、それはこの後に論じられる「フェミニズムとの関係」にも関わっているのではないか、と個人的には考えている。

4つめが「フェミニズムとの関係」である。現在のスピリチュアル市場では「妊娠・出産のコンテンツからフェミニズムが排除され」(p.196)、そのかわり、女性の身体性にこだわり、「女性らしさ」を磨くことを奨励し、「家庭」の枠組みの中で家事育児を中心として担うことを重視する。それは家庭の「外部」が捨象されることであり、同時に「聖なる<母>としてのイメージ」がそこに位置づけられている(p.198)。一方フェミニズムは、「妊娠・出産とは何か、その身体性を生きる女性とは何か、あるいは誰なのかということについて問い続け、議論を重ねてきた」(p.198)。こうしたことが、結果的に、妊娠・出産のスピリチュアリティが「フェミニズムから取りこぼされた妊娠・出産を受け止める役割を担って」(p.199)いくことにつながっている、と著者は見る。そして、これに「フェミニズムはどのように応答することができるのだろうか」と問いかけている。

最後に、「市場」の中の「妊娠・出産のスピリチュアリティ」が、そのコンテンツを入口として様々な業者にひきこまれ消費者問題化したり、代替医療系コンテンツに深入りして母子の健康被害につながる危険性もあることが指摘される。しかし、そのような危うさがありながらも、妊娠・出産が女性の人生に大きな変容を迫る日本社会にあって、「こうした変容を受動的にではなく能動的に働きかけるなら、妊娠・出産を経て<母>になることを、外部に期待することなく、自身の内面からの積極的かつ純粋な希望としてとらえる必要がある。」(p.206)そこに妊娠・出産のスピリチュアリティ市場での受容が生み出されている、その構造は、たしかに、単に「スピにひっかかる愚かさ」と言って切り捨てることはできないだろう。

残っている疑問いくつか

得るところの多い本であったが、いくつか残っている疑問もある。

まず、「自然なお産」の先にある「母乳主義」について。本書でも一ヶ所触れられてはいるが、授乳という行為に生理的意義意外にさまざまなスピリチュアルなものをのせる言説は多く、女性自身の母乳への極端なこだわりや、偏った「母乳指導」によって、乳房トラブルや乳児の栄養不足などの問題も起きている。またそこにはやはり、「子どもとの関係」が外に開かれず女性の内側に接続されてしまう、ということが起きているのではないか。著者の立場からはこうしたことはどのようにとらえられるのだろうか。もう少し論じてほしかったと思う。

また第四章の末尾で著者は、「自然なお産」への注目のひろがりを「現在の産科医療が男性中心であることに起因する」と述べている。歴史的にはたしかにそうであろう。しかし「現在」であれば産婦人科医のかなりの割合を女性医師が占めつつあり、

www.gender.go.jp

2018年の調査では産婦人科医師の女性比率は病院では50%に迫っている。

www.nippon.com

さらに、現実に正常経過の分娩に主として関与するのは助産師(女性)である。産科医が複数いる場合に女性医師を希望するというシステムも拡がっている現在、産科医療の現場が「男性中心である」とまでは言えないのではないだろうか。(年齢層の高い医師=管理職・指導医層ではまだまだ男性が多く、したがって組織の中での意思決定が男性中心に偏るであろう、というのであればそれはわかるのだが、それこそ他科はもっとその傾向が強いので、産科医療だけの問題ではなくなってしまう。)

もちろん医療におけるパターナリズムと自己決定権などの問題は今でもあるし、「産む女性が主体になるべき」という主張のひとつの根っこがそこにあるとは思うが、これらは(患者の自己決定権という意味で)産科にとどまらない問題群でもある。またこれに続く「医療が内包するイデオロギー」とは具体的に何なのだろうか。もちろん医療がイデオロギーフリーだと言うつもりもないが、著者がどのようなイデオロギーを想定しているのかがここではちょっと読みとれなかった。

第六章では、妊娠出産にかかわるスピリチュアル市場の担い手としてしばしば産科の医師や助産師が登場する理由として、「産科医療の特殊性がかかわっているのでは」と分析されているが、これはどうであろうか。妊娠出産にかかわって「スピリチュアル」的主張を展開している医師はたしかに目立つが、要は少数の有名人ということであって、大部分の医師は地道な標準医療を展開している。著者も指摘しているように医師の指示下から独立しようとする指向の強い助産師の一部がスピリチュアルと代替医療に傾倒することもみられ、そのために悲惨な事件もあったが、これも現在の時点で言えばむしろ医師と助産師のパートナーシップを追求する助産師のほうが多いのではないかと思う。そして産科医療が「母子の生死に大きく関わる」のは確かだが、生命の瀬戸際と言えば救急医療や終末期医療のほうがはるかに「生命」の瀬戸際にいるし、むろんこれらの領域でもスピリチュアルっぽい医師はいる。この点で産科医療だけが特別だとは思えないのだが。

一方あとがきで述べられているように、妊娠・出産という事象から「スピリチュアルなもの」の居場所を完全になくしてしまうことは、おそらく、不可能だろう。それは「病」においても「老い」においても「死」においてもそうである。医療がそのような「スピリチュアリティ」とどう向き合いどのような関係を築くのか、はたしかに大きな課題であるだろう。(それにとりくんでいる人たちがいることも知っているが、不勉強でその内容までは十分承知していない。)

もうひとつ、フェミニズムとスピリチュアルとのそもそもの関係、についてである。著者も言っているように、フェミニズムとスピリチュアルなものとはかつて1970年代には(他のニューエイジ/自然志向的なものとともに)比較的近くにあった。そしてそれは、本書で取り上げられている代表的な論者青木やよひで終わったのではなく、その後もずっと、フェミニズム関連の運動/メディアの中に、スピリチュアルなもの・自然志向や代替医療に親和的な傾向が続いていたのではないだろうか。

こう考えるのは、たとえば本書にも出てくる初期ウーマン・リブの担い手田中美津が、その後鍼灸師となってからの著書の中で、代替医療(それもかなり怪しい部類)の「O-リング」を勧めているのを読んでひっくりかえりそうになった経験があるからだし、フェミニズム系の媒体で様々な代替療法や食事療法が取り上げられたり、アプリオリな母乳主義的主張が掲載されたりするのを見てきたからだし、助産師向けの雑誌の中で、フェミニズム的な主張と並んで吉村や三砂が持ち上げられているのを目の当たりにしてきたからだ。それらの経験は、産科医療とスピリチュアルのつなぎ目のひとつとして、フェミニズムがあったのでは?という疑問につながっている。

そもそも1970年代のフェミニズムの中には、女性が自身の身体について、その構造と生理(月経のことではなく本来の意味のー生理学的なー)を把握し、そこに起こることに知識をもって対処しよう、という志向性があったはずだ。その対処法の中にスピリチュアルな要素や(特に欧米のオリエンタル志向と相まって)東洋医学代替医療的なものが含まれていたにしても、解剖や生理の知識はたしかなものであった。しかし日本のフェミニズムはどこかで、そうした「身体への向き合い方」から「正統派」的な医学医療知識の部分をこそげ落としていったのではないだろうか。

なぜフェミニズム代替医療やスピリチュアルなほうに寄っていってしまうのか、そのことによって自らを裏切ってしまうのか。それに対してどうすればよいのか。私にとってはそれが年来の疑問であったし、この疑問はまだ解決しそうもない。

集英社新書/2021年

 

 

アウェイの本を読むということー中動態の世界/國分功一郎

周囲に言及する人が複数いたので読んでみたが、なかなかのアウェイ感だった。

本を読むのにホームもアウェイもないだろう、と言いたいところだが、やはり馴染みのない分野というのはあって、本書に書かれていることがらを理解するための基礎知識が、決定的に足りていないのだ。ギリシャ語もラテン語サンスクリット語もわかないし、アリストテレススピノザハイデッガーも高校の倫理で習った以上のことは知らないしアーレントなんて読んだことないし。

基礎知識がないということは、書かれていることを吟味するためのものさしを自分が持っていないということであり、そこでとりうる態度は、「そうなのか!」と著者の主張を丸呑みするか、「そういう考えもあるらしい」と棚に上げてしまうか、「読んで損した」と全否定するか、になりがちだ。

それではあまりにも不毛なので、読みとれたことをまとめると

(インド-ヨーロッパ語族の言語の)動詞には「能動態」と「受動態」以外に「中動態」という活用がかつて存在した。

受動態は後から派生したものでもともとは「能動態」と「中動態」であり、このとき行為の主体(私、などの主語)は前景に出ておらず、「起きていること」そのものが主体だった。行為の結果が外にあるのが能動態、行為者に帰結するのが中動態。

主体の前景化(能動態/中動態→能動態/受動態)と「意志」という概念の誕生(と言っていいのかどうか…)との関連。

人の行動は時間経過や状況の中での選択であって、それら(過去)抜きの、(現在から未来だけに向かう)「自由意志」というものは存在しえないのではないか、というようなこと。

…が、書かれているのだろうと思った。たぶん。

そうすると「責任」というのはどこに帰属するのか、ということになると思うのだけれど、そこまで話が行かないうちに終わっている感じがする。

よくわからないのは途中で日本語の受動態に言及される箇所で、言語としての日本語をまな板に乗せるならば近隣の琉球語朝鮮語、文法的には全く異なるが文化的には多大な影響を受け続けてきた中国語、との関連性の中で論じられるべきなのではないかという違和感が拭えなかった。

終章はメルヴィルの小説を題材に、それまでの議論をまとめているのだが、なぜここで小説(フィクション)なのか、作家が創作した象徴的な人物が何かを象徴しているといってもそれは同義反復なのではないか、というのもひっかかる。

「なぜこれが『ケアをひらく』でなぜ医学書院なのか?」と読みながらずっと持っていた疑問にはあとがきで一応答えが出たが、むしろその(自閉症研究とか依存症とかとの)繋ぎめのところがもっと知りたい。

最後にひとつ、「選択」と「自由意志」というところで思い出すのは、不登校をめぐって、子どもは不登校を「選んだ」と言っていいのか?という議論があったことだ。『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』(貴戸理恵常野雄次郎)という本で、かつて不登校当事者であった人たちが、親たちの運動で語られた「不登校を選んだ子」という「選択の物語」への異議を表明した。それは不登校経験を否定的に考えるということではなく、また当時の状況の中では確かにその「物語」に助けられた部分もあることを認めつつ、それでも自分たちの経験は「自由に選んだ」と呼べるようなものではないのだ、という主張だった。たしかに子どもたちは、いくつかの等価な選択肢の中から自由にそれを選んでいるのではなく、他に選択肢がないから選んでいる。しかしそれを「行きたいのに行けないのだ」と表現するのもまた違うのだ。…というようなことをもっとうまく説明する手がかりに、この本に書かれたようなことが、もしかしたらなりうるのだろうか。

医学書院/2017年

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 

設定から結末まで意表をつかれっぱなしー黒牢城/米澤穂信

舞台は織田勢に包囲された有岡城、主人公かつ探偵役は戦国武将荒木村重、彼とタッグを組むもうひとりの探偵は地下牢に閉じ込められた黒田官兵衛。すごい設定だ。

包囲下の城は密室に近いが、出入りの方法がなくはない。戦国時代だから殺人は日常茶飯事だが、どう考えてもその意味(動機)もわからないし、状況も密室内密室みたいなかたちで方法がわからない、となればやはり不可解なものとなる。そして謎を謎のままにほうっておけば城内の結束が危うくなる。

村重自身も謎を謎のままにしておけるたちではない人間として造形されていて、城主自身が探偵となる。それも無能な探偵ではなく、むしろ普通以上の捜査能力推理力を発揮するのだが、それでも行き詰まる時、地下の官兵衛の知恵を借りにいく。官兵衛は牢に閉じ込められたままで村重の捜査結果を聞くだけだから、これは「安楽椅子探偵」(全然安楽じゃないけど)ものでもある。

(以下若干のネタバレを含みます!)

 

官兵衛の回答もまたストレートではなく、あくまで解決の道筋を暗示するだけであり、その意味を解くことはまた村重のしごとになる。官兵衛の能力を常にライバル的に意識している村重、何を考えているのか底が知れない官兵衛。この関係と距離感が絶妙だ。

城内には信長に反旗を翻した一向衆、キリシタン地侍たちという異質なものたちがいて、それぞれに拠って立つ価値観が異なる。同じ著者の『折れた竜骨』では関係者の宗教的価値観の違いが謎解きのヒントのひとつになったが、ここではむしろことが謎を複雑化させている。そして、「信仰心」という、おそらく村重自身がもっとも興味がなかったことがらが、(村重から見た)「犯人の意外性」につながっているとも言えそうに思う。

村重がなぜ官兵衛を殺さなかったのか、も物語を通底する「謎」であり、彼の問いかけに答えながら官兵衛が問い続けたのはそのことであるようにも思う。そして最終局面で明らかになる、官兵衛のたくらみ(なぜ官兵衛は問われて答え続けたのか、のほんとうの答え)には唸らされる。

大河ドラマ軍師官兵衛』の記憶のせいで荒木村重田中哲司黒田官兵衛岡田准一で脳内再生されるのにはちょっと困った。

角川書店/2021年

 

 

日々をやり過ごす知恵ーぶたやまかあさんのやり過ごしごはん/やまもとしま

著者(Twitter上の知人でもあるのでそこででおなじみの「ぶたやまさん」と呼ぶ)のことを私はひそかに「Twitterの質問王」と称している。Twitterに様々な分野の専門家が生息していることは周知であるが、ニュース等で話題になった(主に自然科学分野に関わる)ものごとについてのちょっとした疑問を、ぶたやまさんは素人にも理解できる適切な表現でタイムラインに投げかけ、それに対して様々な専門家が答え、さらに再質問し、というかたちでの対話を成立させて、そのやりとりがギャラリーにとっても実に勉強になる。そうしたやりとりのまとめもいくつかつくられている。

適切な質問ができるためには、そのものごとを理解する前提知識がしっかりしていて「自分に何がわからないのか」がわかっているということと、「その疑問を適切に言語化できる」ことが同時に必要で、ぶたやまさんはその能力がたいへんにすぐれているのだと思う。

一方ぶたやまさんは3人の育ち盛りのお子さんを育てているワーキングマザーであり、その暮らしの中で生み出される料理の数々も以前からTwitterであげておられた。それらのエッセンスみたいなものがこの本だと言えるだろう。

料理エッセイ+レシピ、というつくりの、そのしょっぱなから「名もなき料理も立派な料理」とくる。これが実によい。日常を支える料理は決して立派でなくてもいいし、なんなら作るたびに味が違ってもいいのだ。何かしら料理を作ってるというだけで「料理が得意」と言っていいのだし料理のハードルは蹴倒しながら進んでいいのだ。あふれる「これでいいのだ」感が、日々なにかしら「ちゃんとした料理」を作らねば、と思いがちな私たちの気持ちをふっと楽にしてくれる。何よりエッセイもレシピも文章がすーっと入ってくる。質問力として発揮されてきたぶたやまさんの言語化能力が、ここでも十全に発揮されているということだと思う。

どこの家族でもおそらく同じだと思うのだが、私もぶたやまさんと同じように「夕食づくりにかける時間は40分〜1時間」だ。帰宅してからそれくらいで作らないと子どもたちが待ちきれないからだ。子どもが大きくなっても結局その「くせ」は身についていて、今でも(火にかけて放っておける煮込み料理は別として)1時間以上かかる料理は作らない。一方流儀が異なるところももちろんあって、よく使う鍋はフライパンと片手鍋だしワンプレートには基本しないし、そういうのは個々の家族の状況や好みや得意不得意によっていろいろだろう。

いくつものレシピが写真付きで紹介されているが、これらも「こうでなければならない」というものではなくていろいろアレンジもしやすい。私は「ぶたやまライス」を種々解体再編成してステイホームの昼食にしている。土鍋蒸しだってなんだって材料は勝手に変えていいのだ。かっちりとしたレシピ本でないぶん使い回しがしやすいと言っていいだろう。反面、料理をまったくしたことがないという超初心者には勘所がつかみにくいかもしれない、とは思うけれども。

 

ぶたやまかあさんのやり過ごしごはん 毎日のごはん作りがすーっと楽になる